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小屋日記

ドアを開けると不規則に並べられたスリッパ。部屋の隅には誰かから届いたのだろう段ボールがいくつかと、慌てて詰め込んだと思われるビニール袋がおもむろに置かれている。雑然と並んだ古本たちは相変わらず古着のラックを塞いだままだ。春とはいえ、冷え切った室内。ストーブの電源を入れる。ついでに扇風機を回そうと思ったらそこにあるはずの扇風機の姿は無い。その代わり小型の冷蔵庫がポンと置かれている。ひとまず電気でもつけようかと歩けば、行き場がなくひとまず置かれていると思われるオーブントースターが目に入る。 一週間ぶりのぶんか小屋は何も変わっていない。同時に、一週間分の痕跡に満ちていた。ひとまずドリンクの準備だけでもしておこうかと台所に行って戻ってくると、まだ半分しか空いていないシャッターの隙間を入ってきた人が草履の試着をしている。 「ちょうど欲しかったの」と草履を選び「これ、ここで食べていいかしら?一緒に食べない?」とお菓子を取り出してひとつを私にくれた。お菓子を食べながら「娘に宿題を出されちゃってね」と取り組む手仕事の話を聞く。もう何年も立ち寄ってくれる女性だけど、バックボーンなど何も聞いたことがなく、初めて遠くの街に暮らす娘さんがいることを知る。 「勝手に工夫しているの」。娘さんが日々関わっている子供達の姿を想像しながらあれこれ試行錯誤しているという。それが実際に手触りのあるものとして遠くの子供達の手に届く日のことを想った。 13時過ぎ、自転車がパンクしたという草太郎くんが到着する。今日は読書会をしようと話していたのだが、私が寝込んでしまったため本を決めることなく当日になってしまった。家を出るときに慌てて棚から持ってきた大学時代のファイルを眺めながらあれこれ話す。そうして我々がずっと選書で悩んでいるため、コーヒーを飲みにきた藤林さんがやや退屈そうで申し訳ない。よし、これで行こうと決めたのはボードリヤールの「消費社会の神話と構造」。良いタイミングでオズのクリニックの大坪さんもきてくれて3人で音読をしながら読んでいく(といいながら私は病みあがりで音読はせず)。センテンスごとに読んで、あれこれ話してみる。音読して話すのは一人の読書と違う面白さがあるなあ。あっという間に1時間半が経ち、これもうちょっと続けても面白そうだね。と解散。 終わりがけにいつものお姉さんがやってくる。机の上にお菓子を...

小屋日記

​「インフルエンザだねー。B型。もうあんまり流行ってないんだけどね。どっかでもらったのかね。なんの仕事してるの?」 毎回思うけど、風邪ってほんとうに辛い。そしてインフルエンザはとびきりしんどい。そんなことを、なぜ人は忘れてしまうんだろう。 夏には冬のことを、冬には夏のことを忘れてしまうみたいに 元気な時は風邪の存在も忘れてしまう。 そりゃ、一応平和と言われる社会に生きてて、戦争のことを想像するのは難しいはずだ。 でも世の中には、そういう想像力をいつもちゃんとポケットに入れてる人もいる。 私もそうあたりたいのに、 ポケットはいつもぱんぱんだし そのせいで鍵や携帯電話を常に探している。 それにしてもたくさん眠った。 まだあとちょっと眠ろう。

小屋日記

風邪を引いてしまった。 なので今日は事務所で静かにしている。 草太郎くんが表で作業をしている。 いつものように次々ひとがやってくる。 旅人がやってきたり また旅人がやってきたり 近所の人が「今日も何も売ってないのかい!?」とすごい勢いで入ってきたり こっちで聞いているととても面白い。吹き大そうになること多々。 草太郎くんは、少しも相手に自分を合わせない。 自分のままで人と繋がる人だ。 なので本題に行くのが早い。 向いている。間違いなく向いている。 私よりも多分、向いている。すごい。 大事な時間が流れている。 いい場所だなあと思う。変な場所だなあと思う。 気づいたら眠っていた。 具合が悪い。 もう帰ろう。

小屋日記

​“おばあさん”という存在がとても気になるのは、自分も必ずおばあさんになるから。そして、おばあさんは、ずっとおばあさんだったわけじゃ無いから。 きょうも何人かのおばあさんがやってきた。いや、考えてみたら何十人ものおばあさんだ。そのおばあさんたちは、みんな違う。 朝、小屋の前に立っていたあのおばあさんが、実は小屋があって良かったと、救われたと話していたと又聞きで知る。 本をふらりと見に来てくれたおばあさんの鋭い眼差しからは、社会をずっと見つめてきた人なのだと感じる。鞄から覗く憲法の前文。 きょうも立ち寄る卑弥呼の生まれ変わりの人は、自分はすごいと言う話と、すごくないという話のバランスが独特だった。卑下するというのとも違う。どちらも事実を話しているだけなのだろう。 他にも、竹ちゃん!とやってくるおばあさんたちがいる。カバンを作ってくれるおばあさん。コースターを縫ってきてくれるおばあさん。必ず雑誌だけを買いに来るおばあさん。困ったら駆け込んでくるおばあさん。 かつてはこの街で遊んだり、オシャレをしたり、恋をしたり、またはしなかったり、そんなおばあさんたちの記憶はどこへ行くのだろう。この街を漂っているのだろうか。 おばあさんが、おばあさんじゃなくて良い場所であれたらいいなあとおもう。わたしも将来そんな場所を探す気がするから。

小屋日記

今日は、うめちゃんの「リーディング」なる催しからのスタート。 リーディングはタロットカードのような占いのようなもの(多分)。 道ゆく人がのぞいていたので声をかけると 「占い?私は大丈夫。卑弥呼の生まれ変わりだから。で、元々は天皇家だから。みんな私のことを皇后様って呼ぶよ」おおお。 そんな元卑弥呼の女性とうめちゃんの邂逅から始まる一日。 今日は予約が入っていないから誰も来ないかもといううめちゃんだったが びっくりするほどコンスタントに人が現れていた。 私はといえば裏の部屋で今週末美瑛で行われるイベントの打ち合わせ。 相変わらずあたふたしてしまうオンライン会議。 アートスペースについて考える催しなのだけどそこに出る人は誰も アートスペースを名乗っていなかったり、全員余所者だったりと共通点が多い。 当日はみんなといろんな話しができそうで嬉しい。 午後はアロマ喫茶。始まる前にあやさんと、ぶんか小屋は ふらりやってくる人とそうではない人の垣根がないので ちょいと難しいと話していて、まさにそんな感じで次々人がやってくる日。 コーヒー飲める?とやってきたおじいさんを「今、アロマの時間なんですよ」と 曖昧に断ってしまい怒らせてしまう。 「俺が着ている服は全部良いものだろう。残念だったな」と帰っていった。 「金ならあるんだぞ」そう言って帰っていくおじいさんの後ろ姿が切なかった。 懲りずにまた来てほしい。 そのあとは、ふらりと来た人もアロマのワークショップに参加していってくれたり 素敵な企画を持ってきてくれたりといい塩梅で進んでいた。 公民館であっても、部屋が出入り自由ということは滅多にない。 ぶんか小屋は割と常にオープンなので、道ゆく人にはその塩梅がわかるわけないよね。 その辺りをもっと親切に案内したい気持ちもあるけれど いちいち説明するのでも良いような気がする。 今日は理事会のつもりが、間違えて1ヶ月違う日を案内し、まさかの誰も来ない日。 やってしまったすぎる。明日までに送らねばならない書類を印刷して帰ろう。とほほ

小屋日記

今年度最後のKEITO場。 布を裂く人、紡ぐ人、編む人。 1年という時間を重ねる中で、もはや「毛糸」という枠は大きく超え 既存の「糸」の在り方も揺さぶり 新たな出会いを重ねながら進化を続けているKEITO場。 来年度からは月1回になるのだけど きっとまだまだ知らない「糸」たちが立ち現れるのだろうな そんな予感に満ちた日だった。 帰りがけに、旅から戻ってきたYちゃんが。 なんだかとっても晴れやかな表情をしていて こちらまで晴れやかな気持ちに。 顔を出してくれる人がいるのは嬉しい。 そういえばその流れでみんなが「約束」をしていたのだけど その時間にすごく学びがあった。 午後はザ・インターナショナル タイム。 初回は少なかったという参加者も2回目は5人と大変な盛り上がり。 将棋をしたり、折り紙をしたり、アイスを食べたり 時々英語やらドイツ語やロシア語が飛び交うなかなか新しい時間。 「来月からはザを抜いて欲しい。チャッピーもジェミニもそう言っている」 とのことで、来月からはインターナショナルタイムに。 終わった後は、先日ふらりと来た女性と久しぶりの元気なお姉さん。 どうやって過ごそうかと迷っている女性に色々と語りかけるお姉さん。 最終的には2人で、品物を並べ替えてくれている。ナイス! その間に私は密かにスマホをリセット。 なんとか新しいスマホを買わなければならない状況を回避したっぽい。 まだまだ頑張ってほしい、iphoneSE2。 今日は4月の通信とシフトと会員の皆様に送る会報を「あらかた」作って 新しく会員になってくれた方々に会員証を送るための宛名書きをしたりした。 これから理事会の資料作り。 小さい考えたいことがいっぱいあるのに、なかなか「考える」ができていない。 例えばこの日記も、更新したことを伝えるべきかどうか。 わざわざストーリーに載せるのも誰かの一瞬の時間を使うと思うと悩むけれど 更新しなければ誰にも知られないままになってしまう。みたいな小さいことたくさん。 小さい考えたいことリストを作っておけば良いのかな。

小屋日記

春分マーケットからの居酒屋タロ そして土曜日は「わたしのからだ展」を札幌へ観に行って 日曜日の「黒川の女たち」上映会とバタバタと過ぎていった週末。 日常の小さな出来事はその日のうちにメモをしておかないと忘れてしまうなあ。 春分マーケットでも覚えておきたいような 小さな断片がたくさんあったのに今となってはほとんど思い出せない。 そして前述した「世界99」を読みながらの日々であったので記憶を辿ろうとすると どこまでが日常でどこまでが物語なのかかなり曖昧になってしまっている。 しかし「世界99」を読み、「わたしのからだ展」に行き、 「黒川の女たち」を観るという流れ それぞれが響き合うには十分過ぎる流れであった。 これについては時間をかけてどこかに書いておきたい。 それはそうと、気がつけば「戦争反対」と言いにくい社会になっている。 言葉って、そこに何かを宿らせないとどんどん「空虚」になっていくものだと思う。 空虚にさせられちゃうというか。 それに対抗するのは具体的な歴史を、誰かの顔を、生を知ること。 事実でも、物語でも。 ぼーっとしていたらどんどん空虚にさせられていく「言葉」を手放さない。 それはこれからの時代さらに大事になっていくと思う。