小屋日記
これはどうやら風邪の引き始めのようだ
そんな今日は家で大人しくしていることにしよう
3.11前夜ということもあり
何かまつわる本でも読もうと
赤坂憲雄さんの「災間に生かされて」を読み返す。
この本は、白老で本屋さんを営むはねちゃんが
「タケさんが持っているのが良い気がして」と
以前送ってくれたもの。
今日序章を読んで改めて発見があった。
私たち災害の後の日々を生きているのではなく
災害と災害の「間」を生きているのではないか。
赤坂さんが「災間」という言葉に出会ったのは
仁平典宏さんの「<災間>の思考」によってだったと書かれていた。
わたしはその名前に見覚えがあった。
地元である中野区に暮らしていた頃
路上生活者の支援グループに参加していた。
毎週木曜日の夜に、中野駅周辺をまわって
おにぎりやホッカイロを渡して歩くというもの。
そこにいたのが仁平さんだった。
おっちゃんたちの間で調整役のような感じで
柔軟に動いてるお兄さんだった。
「社会福祉士をとったらいいんじゃない?」と
勧めてくれその人が仁平さんだったことを今日まですっかり忘れていた。
本書の中で仁平さんが
「災間の時代に求められているのは、弱者を基準として、社会的に多様な<溜め>や<遊び>を用意することだ」と語っていたことが紹介されている。
「溜め」という言葉は、反貧困の最前線に立っていた湯浅誠さんが
自己責任論の対極の価値観として「<溜め>のある社会を作る」と掲げていたもので
溜め池のように、安心感だったり繋がりだったりが担保されていないと
人は立ち上がることができないというようなニュアンスがある。
社会的に多様な<溜め>や<遊び>を用意すること。
その言葉は自然と今の自分にもつながっている。
そんなはじまりから、赤坂憲雄さんがいろんな思考や出来事のあいだを
行きつ戻りつしながら思考をしていく過程が丁寧に書かれている。
ですます調で書かれた文章は、エッセイとも論考とも違って
独り言のような、手紙のような空気を纏っている。
最後は、定住から「遊動」という生き方へと関心を寄せていく。
どうして人は逃げてはいけないのかという問いから始まり
その一つの答えとしての遊動。
そういえばアジールという言葉に出会ったのは
赤坂憲雄さんの「排除の現象学」ではなかったか。
路上生活者の人の呼び名が各地でいろいろあることもその時に知った。
「お腹がすいたので何かご飯をください」
まちなかぶんか小屋に、そう言って、定期的にやってくる人が現れた時に
思い出したのが「排除の現象学」だった。
そういう生き方があっても良いはずだ、と思った。
そうして後から気づくのはその人の存在に私もまた喜びをもらっていたこと。
ただそれを本人が望んでいたかといえばまた別で
昨日その人から「幸せにやっていますよ」という手紙が届いて
そんなこと言わずに安心して住む場所がある方がそれはきっと幸せなのだとも思った。
でもその人が今幸せなのは、あの時にちゃんと「逃げた」からで
やはりそれはどこか「遊動」にもつながるような気がするけどどうなのだろう。
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