小屋日記
週末に札幌の SCARTSで行われる「わたしのからだー身体のつながりを取り戻すー」展に行こうと思っていて、その前にずっと読もうと思っていた『私の身体を生きる』(文藝春秋)を読んだのが先週のこと。
17人の作家による自身の身体をめぐるエッセイ集。どれも良かったのだけど、村田沙耶香さんの文章がもうぴかぴかに光っていて、『コンビニ人間』を読もうと思って積読していることを思い出しながらも書店に走ってそこに積まれていた『世界99』の上巻を買った。
これがもう凄まじい。閉ざしていた自分の感覚がどんどん開いていく。
痛みが、襲ってくる。
これを読むまで、「わたしのからだ」を取り戻すって、なんとなく解放されるような・祝福に満ちたようなイメージでいたけれど、もしかするとそれは自身の痛みや傷に気がつくことで、それは他者の痛みや世界で起きている理不尽が今より見えるようになることなのではないか。
フェミニズムに関する本を少しは読んできたし、そういう言説に触れてきた気がしていたけれど、それを自分が語ろうとするといつも「借りてきた言葉」のようになってしまうことが自分でとても気になっていた。
ついに私は「フェミニズム」に出会ったのかもしれない。
そんな日に届くニュース。
「赤ちゃんの遺体遺棄か。女子中学生(15)逮捕」。
その前にできることがどれだけあっただろう。大人がやらなきゃいけないことが、社会がやらなきゃいけないことがどれだけあっただろう。
出勤は昼からだけど、たくさんの領収書をエクセルに打ち込むために出勤をする。
草太郎くんが古本のアカウントで勧めていたpodcastを聴く。
写真家・田附勝さんと志賀理江子さんによるトークの回だ。
ここでもやはり「手を動かすこと」について語られている。手芸の話。
私も去年は結構手芸をしていたが、1回Instagramに載せたらなんだか魔法が解けたみたいにやらなくなってしまった。でもあの時間を思い出すとやはりやりたいな、と思う。
後半の「写真」をどう捉えているか的なくだりを聞きながら
私にとってはぶんか小屋の運営そのものが「儀式」みたいなところがあるなあと思う。
予期せぬ出来事をいつも待っているし、そのための準備をいつもしている。
しかし私はどうしてこんな風に考えるのだろう。
アキさんから届いていたグループLINEの文面を思い出し、返信をしてみる。
それは自分自身の「原点」について考えてみるもので、羅列していくとわかりやすいほどにその理由は明確だった。私には、街から「曖昧さ」がどんどん排除されていく、そういう原体験がいくつもあるのだった。
ひと段落したところで、扉の向こうから何やら音がするなと思ったら藤木さんだった。
ついに4月から始まる取り組みのフライヤーを届けてくれる。
おお、ついに始まるんだなあ。
添付してくれた文章にはまさに考えていたことが書いてあって、
偶然、志賀さんの名前が連なっている。
リトミックの時間になりふじきさんは帰っていく。
今日も大盛況のリトミック。
「リトミックは全部の芸術につながるんだよ」とかよ子さんは言った。
リトミックを終えた後、藤木さんの取り組みの存在を伝えたいなあ
そう思う人が偶然やってくる。
ついつい嬉しくなって、街に出たいねという話をする。
「私ももうちょっと年齢を重ねたらできると思うんだ」とその人は言った。
やっている姿が浮かんだ。
今日は来客が少なくて、古本3冊とCDが3つ売れた。
3枚のCDを買っていった人が、1枚333円でと。
333円✖️3を考えて私がフリーズしている間に、
「お釣りはいりません」と帰っていく。洒落ている。
その後は営業の人が来て、全く興味がないのになんとか「あの本は、どういう本を並べているのですか?」などと質問していて、答えてもやぱりあまり興味がなさそうで
なんだかお互い気の毒な時間が流れていて面白かった。
夜はデッサン会。値上げの話をする。「わかったよ!」と。
心意気だった。我々も頑張らねばならない。
小さな子がいて、感情と言葉が一致しないもどかしさみたいなものを部屋の隅っこで全身で表現していた。
さ、帰ろう。
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